昭和46年10月15日 朝の御理解



 御神訓 一、「祈りて、霊験のあるもなきも、わが心なり。」

 いかに祈った所で、参った所でおかげのあるないは、自分の心だと、自分の心の状態というものが、おかげを受けれる状態に頂かせてもらうと言う、そのために信心があると言うても良いわけです。信心とは自分の心の中に、いつもおかげの受けられる状態、和賀心の状態になったら、おかげをきやっちすることが出来るか、本当に自分の心次第なのですよね、一生懸命に御祈念をした。
 一生懸命にお参りをした、然もお取り次ぎを頂いてお願いをまあそう言う、まあ一生懸命拝んだとか、一生懸命御祈念をしたとか、又はお取り次ぎを頂いておかげを頂くと言う意味でのおかげ、そう言う意味でのおかげではない、みかげのあるも無きも我が心とおっしゃるのは、みかげそのものよりも我が心にここでは重点がおいてある、霊験を受ける受けないじゃなくて、信心をさせて頂いてそして自分の心の中に、常時心の中に喜びが頂ける、心の中にいつも安心がある。
 いよいよ神様を信ずる心が強くなる、そう言う心の状態を頂くと言う事が、私は本当の意味でのおかげであるとこう思う、自分の心は不安である、いつも自分の心はいらいらしておる、それでもやはりお参りせねばおられんから、お参りをする、お願いせねばおられんからお願いをする、それで成程お取り次ぎのお徳によって、おかげを頂くだから、霊験は受ける、おかげは頂くにしましても。
 ここで教祖様が又は天地乃親神様が、おかげを受けて呉よと言うておられるもう一つの願いと言うのは、いわゆる信心しておかげを受けると言う事は、自分の心の中にあるのだと、その我が心を信心によって頂くのだと、言うならば我が心と書いてあるけども、実は和賀心和らぎ喜ぶ心を頂く、そう言う心に本当の意味に於いての、霊験と言うものはあるのだと、そう言う心でキヤッチするのだとおかげと言うものは、これは願わなくても頼まなくても、そう言う心の状態でさっさと、おかげをキヤッチして行くと言う。
 そこんところを私は教えておられるのだと思います。その一つ前に「忌み穢れは我が心で犯すこともあり払うこともあり」、ここに我が心と言うものが出てくる、 我が心次第なんです、然もそれは普通で言うならば忌み穢れ的なものであっても、それをおかげにしてゆけれる、おかげの道がついて来る道、もう二十何年も前の話しですけど、北京から引き上げて帰って来ましてから、その年から、まあ正確に言うと弟の戦死の広報を受けてから、その月から私は御本部へ月参りをさせて頂きました。
 もちろん親先生が当時なさっとられましたから、親先生のお供をしてお参りをするのです、そう言うある月参りの時に、親奥様も御一緒親奥様と言うよりも、大奥様ですね、はばしゃま、親先生のお母さまですね、も御一緒に三人でお参りする事になった、いよいよ出発させて頂く、表まで出らせて頂いてから、三人が表に出らせて頂いたら、本当に新しい下駄を履いておられた、ばばしゃまの下駄の鼻緒がぷつっときれた、私は何か嫌な予感がしましたですね。
 ところがばばしゃまが、「あぁおかげ頂いた」と言いなさいました、これは途中でどん切るれば、裸足にならにゃんとこじゃった、おかげ頂いたともう私はその時にですね、信心の年輪とでも申しましょうか、永年本当に神様を頂きに頂きぬいて、修行して見えた方の思い方と言うものの、その素晴らしい事にはじめて気が付いた様な気がしました傍らにいた私は何とはなしに、出掛けに新しい下駄の緒が切れたりするなら、何かその嫌な思い、嫌な予感がした。悪い事なんか起こって来るときには。
 何かそう言うものがあるもんだと思うておる訳です、信心と言うのはいわゆる、おかげのあるも無きも我が心です、又は忌み穢れは自分の心で払う事もある、又は犯すことにもなると仰っとられます、そこで私の考えで嫌な例えば不吉な予感を持って居ったら、本当に不吉な事に出会ったとったかもしれません、そう言う心が不吉な事をよぶのですね、あれは、だから悪い事を言うて待つなと仰るのもそう言う事。ところがばばしゃまの頂き方と言うのは。もうこれは信心を頂いておらなければ。
 しかも手厚う、しかも信心が出来ておらなければ、中々自分の心の中にああこれは出掛けにこう言う事があったから、何かあるとじゃなかろうか、それとも神様にお願いしてと、悪い事は、こう頭を打ち振りながらね、頭を打ち振って、悪い事やらをこう払う様なものではなく、それでも矢張りおかげですけど、それよりかもっと即そのまま、おかげとそれを頂いとられる、嫌な思いをせねばならない様な事でも、ああおかげ頂いたともうおかげにしてしまっている、勿論御本部参拝が有難く、何事もなしに出来た。
 ですからその時に、そう思おうと思うても、なかなか思えないものである、そこに常日頃の信心が大事である事がわかります、例えば突発的な事が起こって参りますね、さあそれはどうでしょうか、と言うときにです、それをおかげがと言える心なんですよ。先日も或る方が丁度参り合わせた方が、自分の方角へ帰られると言うので自動車に乗せて行かれた、所謂親切ですよね、ところがその人の住んでおられるところが随分廻り道をせなければならないところなんです。
 それでもまあ何事にも真心になれよと、まあここで降りなさい、此処から電車で行きなさいと言うてもよかわけです、けどその方は態態その、そこまで回り道をしてそこまで送ってあげられた、帰り道にゴーストップのところで、何か見えにくいところで、言うなれば一端停車せなければ、いけないところで停車せずに行きよったところが、後ろから白バイがやって来た訳ですね、それで調べられて恐らく科料でしょうね、罰金納めなければならない事になった。
 一寸神様も神様、何事にも真心になれよ仰るからこちらは信心になっとるとに、しかも送ってないなら何もないとに、態態それこそ廻り道だから向こうも随分遠慮しなさったと思う、それでもいいえ送ってあげますと言うて送って上げた、しかもその送って帰り道に、罰金取られる様な事が起こった、これはあんまり親切も過ぎちゃいかんと言う風に感じますけどね、その方は思われた、つい最近或る事業を思い立っておられます、ははあこれはその事業のための修行だなと思うたと言うのです。
 でその事を明くる日参って来て、お届けされますから、成程そう言う思い方もすばらしい、所謂和賀心ですね、そう言う頂き方になれば確かに神様はこんどしようとしている仕事のそう言うおかげの受けものが、段々水ももらさぬ様に出来て行きよるとも言えます、けれどもそれは〇〇さん少し考え方が小さいよと私は申しました、折角そう言うお取り払いを頂いたのですから、もちっと大きいところにおかげの頂ける思い方かあり相なものだねと言って、話した事でした、皆さんならどうでしょう。
 態態相当に遠いところまで帰られるんですね、しかもそれを送って上げられたそしてその帰り道だから、有難い事ばっかりが有り相なけれどもそれとは反対の事が起こっておった、これはもう本当送ってやらにゃよかった、途中までで電車でと言えばよかった、ところですけどもそのところをですね、即矢張りおかげとして受けておられます、けれどもそのおかげとして、受ける受け方もです。
 和賀心なんですよ、十のおかげを受ける受け方と、もっと千も万も受ける受け方がある訳です、だから今度させて貰う仕事の、順調なおかげを頂かねばなりません、そのためのお取り払いだな、修業だなとこう思うたら、これは送ってやらにゃよかったなんて言う、心はさらさら起こらなかったとこう言う、ああ有り難いなあ日頃信心しとるから、有り難いけれども神様はもっともっと、大きなおかげの受けられる、受け方があるぞと、次ぎに教えておられる。
 どう言う風に受けたなら、もっと大きな受け方になるだろうか、それは神様の御都合として頂く事たいと言うて私は申しました、此れがね神様の御都合と言うけれども、本当にいまその方が言われる、そう言う実感を以て神様の御都合と頂ける事は、範囲が広いでしょう、同じ科料を千円なら千円、二千円なら二千円払わなければならんが、二千円の元でですね十のおかげにもなりゃ百のおかげにもなる千のおかげにもなる、自分の心の使い方一つなのです。
 例えばそう言う場合ほんに馬鹿らしい事をしたと、日頃頂いとる何事にも信心になれよと仰るけん信心になったが、かえってこげな事してはならん、神様もいい加減なものだと言った様な、頂き方もまあ普通からいえば一般的に言えば、そう言う受け方しか出来んと思います、けれどもそれでは我が心で犯す事になる、折角神様がおかげを下さろうとして、そう言う働きがあったのにです。
 こちらの受け方がです、しもうたとか、嫌いだったとか受けたらです、それはおかげを言わば向こうに押し返すことになり、自分の心を犯してしまう、私はこの信心の微妙さ、もう本当に微妙な自分の心、もうこの位デリケートなものはないですね、おかげ受ける受けないのその心の状態と言うものは、おかげと頂けばおかげになるのですからね、これはしもうたと思うたら、これはしもうたになってしまうですから、同じ事柄なんですよ、それがおかげじゃない、そこの只受け方一つではです。
 それがそのままお徳になるのですからね、ですから私どもは矢張りおかげになる心、又はお徳になる程しの心をもういつでも、どの様な場合でも仕えられる稽古をさせて頂くと言う事が信心なのです。私は信心してそう言うおかげを受けてくれと、神様は願っておられると思う、おかげの在るも無きもわが心、そこにです何故信心させて頂く者が、修行に取り組まねばならないか、いわゆる修行の必要性と言うものがそこに在る訳です、まあ分かり安く言うとです。
 日頃修行が出来てない、お参りせにゃいかんと思いよるけどお参りせん、そにに罰金取られる様な事が起こったら、ははこの頃は御無礼しとるけん罰被ったと、言う様な頂き方だったら本当に罰被ったになってしまう、ところが今のその場合はもうそれこそ日々人の真似のできん様な修行を日々なさっておられますから、そう言う様な事の場合でもそれをああおかげと、こうすぐおかげにキヤッチしとられますよね。
 今のその御信者さんを自動車で送ったと言うのでもそうです。もうこれから先はもうこげなこつはもうしちゃならん、もうやっぱり良い加減にしとかにゃ出来んと言った様な事しか、心の中に起こらないならば、例えて言うならばです、信心させて頂いておってこれなのだから、まあおかげだと頂ける心なんです。信心させて頂いておってこう言う事が起こったんだから、これがおかげにならん筈がない。
 お徳にならん筈がない、信心しよってこげな事が起こった、と例えば信心を止める人すらあるかも知れませんよ、それが少し複雑とか大きな難儀な問題であったら、けれどもお徳を受けて行く人はそう言う例えば目の前がまっ暗闇な様な問題が起こった場合です、それをおかげ、神様の御都合に違いないと頂けれる心、それがだからおかげになりお徳になる、そう言う心の状態をです、頂かして頂くためにこれが不思議に、修行が一生懸命出来ておる時には、そう言う受け方が出来る。
 信心修行が出来ておらんとそれを本当に難儀は難儀、困った事は困った事としてしか受けられない、こう言う受け方ではいかんけれどもと思うても仕様がない、心の中に浮かんで来るものだから、本当に日々矢張り心を神様に向けさせて頂いての、そこに修行がです、続けられておるところからです、いわゆるおかげの受けられる和賀心、と言うものが心の中に常時、頂きとめて置くことが出来る、信心はそれが有難い、それはしもうたねと言うたら、それは絶対しもうたねになるですよ。
 ああそれはおかげと頂いたら、絶対おかげになるです。信心ちゃそんなにデリケートです、ですから本当にそれはおかげ、おかげかと本当にいえるね、信心を本気で頂いておかねばいけません、又そう言う心を頂ける事のために、一つ工夫しなければなりません、修行しなければなりません、信心させて頂いて然も日々お取り次ぎ頂いて、今日もどうぞよろしくとお願いしておって、出来た事であり起こって来る事であるのですから、そこで最近申しております。
 御事柄としての内容と言うものを、本当に極めておかんならん事になります、事柄じゃない神様が、私どもにさし向けて下さる事柄です、神様が私どもに求めてくださる事柄ですから、それに御の字を付けねばおられない、それが例えば痛い事であろうが、どの様な事であろうが、それを御事柄として、受けさせて頂くと言う頂き方こそです、おかげは我が心に在るのである。
 信心をさして頂いて日常生活をさして頂いて信心させて頂いておる、喜びをしみじみ感じさせて頂くのは、今日の様な御理解が本当に身に付いて、もう本当に自分で例えば忌み穢れは我が心で穢すこともあり、又払う事もあり、例えばそれが忌み穢れであっても只自分の心一つで払ってゆけれる程しの生活ができると言う事が有難いのです。信心とは又どの様な場合であっても、それを神様の御都合に間違いないと、確信される生き方、信心させて頂いておってのこと、然も信心に心を向けておってからのこと。
 その辺のところを私は本当に大事にして、自分のものに段々それがなって行く事に信心の楽しみ、信心の喜びがあると思うお参りをする、お願をしておかげを受けると言う事だけではなくて、自分の心次第でおかげが受けられて行く、もう実に楽しいことそこで自分の心の調子と言うものを自分で心に懸け続けておれる訳です、こう言う心の状態であると言う、例えばどう言う心の状態かと言うと、いわゆる有難いと言う心の状態、それでこの心をです犯す事があってはならない。
 この心をくずしてはならない、そう言う精進がまた楽しくなって来る、例えば明日を楽しめと言う御教えがありますけども、明日を楽しませていただけれると言う事はね、明日は遠足だから、明日は運動会だからと、例えば子供が遠足だから運動会だからと言うて、明日を楽しむそう言う意味じゃないです。明日を楽しむと言うのは、それこそ未だ未知のもの、それこそどういう事が起こって来るかわからない明日、けれどもこの心の状態であるならば、有難い事しか起こって来んと思うから。
 明日が楽しいのです、それはもう明日食べるものがなかっても楽しいです、明日は神様がどげな手で食べさせて下さるじゃろうか、と思うだけでも楽しいです。心がはずんで来るです。その心の状態と言うものが、自分ながら有難いなあ素晴らしいなあと言うことになる、我が心その我が心とは、矢張り和らぎ喜ぶ心、おかげの有るも無きも和賀心とは、おかげの有るも無きも和らぎ喜ぶ心の状態だ。
 そこで例えばすべての事を御の字を付けての事柄として頂かして貰える御事柄の内容を詳しく知っておかねばならない、わかっておかねばならない、同時に神様の御都合と言う事を沢山使いますけれども、どんな場合にあっても本当に神様の御都合、どう言う御都合かと、もうおかげを下さろう思うてござる御都合、例えばその今の〇〇さんの話しじゃないけれども、はあ此処に事業を一つここに思いたちよる、その事のための修行じゃろうと言う頂き方はおかげを受ける心なのです。
 ところがね神様の御都合として受けたらこれはもう、お徳になる心です、自分でだから決めてる訳です、はあこの事がおかげになる修行だと思うたら、その事がおかげになるためだけの修行、けど神様の御都合と言うのは、どう言う御都合やらわからんですから神様の御都合として真実頂けたら、それがそのままが徳になる。二千円の科料、五千円の科料、それは幾らでも多い方がよかちゅう訳です。
 五千がつの徳の方が良い、二千円がとより、と言う事にまでなって来るのです。だからおかげにするかお徳にするか、否かえって難儀なこと困った事にするか、本当に我が心次第である。そこで修行の必要性と言う事になるのである、なぜ修行が必要かそう言う心の状態がいつも頂けておる事のために、修行させて貰うそう言う修行によっていつも自分の心の中にです。
 よし明日食べるものがなくてもです。自分の心の状態がもうおかげを確信しておる、明日はどの手で神様がおかげをくださろうかと、思うだけでも明日が楽しめると言う事になる。祈りてみかげの在るもなきもわが心、祈りてみかげの在るも無きも我が心、このわが心の状態をいつも、確かめさせて頂きながら、生活をする。自分の心の状態はおかげ又はお徳を受ける心の、一つのバロメーターになるわけです。
 こう言う心の状態では、自分も助からんし、此れではおかげにもならん、なおさらお徳などには及びもつかない、そう言う様な自分の心を言わば見極めて、そう言う心が清まって行き改まって行き、磨いて行く事によってです。自由自在に有難い方へ有難い方へと有難い心が使って行けれる、心の状態が頂ける、生き神とは此処に神が生まれる、と言う事であると仰る。
 生き神の状態と言うのはいつもどの様な場合でも、有難い方へ有難い方へと、有難い方へ心が転ぶ、移って行く状態を生き神の状態と言う。人は悔やむ様な場合であっても、これをおかげと頂ける心をそう言う心の状態が、すでにもう生き神である、成程わが心に生き神がその様にして誕生して行く、そう言う状態を愈々有難いもの楽しいものにして行くところに、信心の、それを支えてゆくものは修行である、愈々その修行が尊いその修行になって行かなければいけませんですね。
   どうぞ。